福島県の人口は十一万人減りました。その原因を忘れられるというのなら、私たちはどうかしています。風化の波をものともしない、新しい風よ吹け。
加藤哲監督の「日本零年〜フクシマからの風第二章」(二〇一五年)は、難しい映画です。
冒頭の十五分はドキュメンタリー。カメラは福島の“今”を淡々と記録します。
「福島除染のために生涯かけて頑張ります 六十六歳」
林間の小道にはためく黄色いのぼりは、そう染め抜かれ、村人たちの悲壮な決意を伝えています。
あとの七十五分は、ドラマ仕立てになっている。
都心で働くサラリーマンと福島生まれの妻がドラマの主人公。東京スカイツリーを仰ぎ見るマンションで、平穏に暮らしていた。それがある日、一変します。
3・11からちょうど二年目のその日、妻が二歳の息子を連れて失踪してしまう。“なま暖かく何か金属のサビのような臭いのする風”に恐怖を覚え、妻は都会を逃げ出します。
夫は仕事を放り出し、妻の郷里へ捜しに向かう。
除染の土や廃棄物を詰め込んだ黒い土のうの山は、まるでピラミッド。四角い仮設住宅が積み木のように連なって、中では年老いた住人が健康診断を受けています。
廃虚が海辺でうなだれて、砂浜には魚の死体が横たわる。
そんな被災地の情景に、夫の独白が重なります。
<そこは風景も時間も混沌(こんとん)とした止まったままの世界だった>
変われない世界の片隅で、夫も妻も不穏な風におびえています。
◆被害者はいないんだ
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3・11から一年後、監督は原発周辺の農家に寄り添う記録映画を世に問うた。「フクシマからの風〜第一章喪失あるいは蛍」です。
そのうちの一人、川内村の養鶏農家の言葉が今も、監督の頭の中を離れません。
「(原発事故に)被害者なんていないんだ。(電力の消費者は)全員加害者なんだよね」
こんなことも言っています。
「チェルノブイリで気がつかないから、フクシマが起きたんだ。フクシマで気づかなければ、いつかまた、どこかで起きる」
ところが新しい年を迎えるごとに、フクシマは意識の隅に追いやられ、摩耗していくように思えてなりません。監督は、そんな“もやもや”を主人公の姿を借りて吐き出すために「第二章」の大半をドラマ仕立てにしたようです。
忘却の風にあおられて脱・脱原発への逆回転が加速しています。
関西電力高浜原発と大飯原発再稼働差し止めの仮処分を認めない昨年暮れの福井地裁の決定は、その象徴ではなかったか。
専門家の意見を尊重し、よほどの落ち度がない限り、安全審査の技術的判断には踏み込まない−。
四国電力伊方原発訴訟で示された、一九九二年の最高裁判例へと逆戻り。自らの判断を回避した司法の責任放棄です。
忘却は無責任の温床です。だが何度でも繰り返す。原子力規制委員会にも国にも司法にも、むろん電力会社にも、原発の安全など到底保証できません。過酷事故の責任などは負えません。
都会の電力消費者も、原発立地地域の人たちも、多くはそれに気づいているはずです。
なのに、暮らしのためにと割り切って、あるいは、仕方がないさとあきらめて、“もやもや”しながら日々を送っていませんか。
◆選択肢はちゃんとある
-----------
「第二章」の終幕。激しい子どもの泣き声を背景に、謎めいた言葉が画面に浮かんできます。
<変わることのない私たちは/いつか再び/復讐(ふくしゅう)されるだろう/そして救われるだろう>
間もなく五年の春が来ます。四月には家庭用の電力小売りが自由化されて、電源を選べる時代が訪れます。本紙などの調査では東京都民の約六割が東電以外への切り替えを検討中。そのうちの三割近くが安さより、「原発のない電力会社」を選ぶと答えています。
再生可能エネルギーには、世界中で新しい風が吹いています。
私たちも当事者としてこの“もやもや”に向き合い、乗り越え、変わらなければなりません。
「第三章」には「希望」という名がつくように。
加藤哲監督の「日本零年〜フクシマからの風第二章」(二〇一五年)は、難しい映画です。
冒頭の十五分はドキュメンタリー。カメラは福島の“今”を淡々と記録します。
「福島除染のために生涯かけて頑張ります 六十六歳」
林間の小道にはためく黄色いのぼりは、そう染め抜かれ、村人たちの悲壮な決意を伝えています。
あとの七十五分は、ドラマ仕立てになっている。
都心で働くサラリーマンと福島生まれの妻がドラマの主人公。東京スカイツリーを仰ぎ見るマンションで、平穏に暮らしていた。それがある日、一変します。
3・11からちょうど二年目のその日、妻が二歳の息子を連れて失踪してしまう。“なま暖かく何か金属のサビのような臭いのする風”に恐怖を覚え、妻は都会を逃げ出します。
夫は仕事を放り出し、妻の郷里へ捜しに向かう。
除染の土や廃棄物を詰め込んだ黒い土のうの山は、まるでピラミッド。四角い仮設住宅が積み木のように連なって、中では年老いた住人が健康診断を受けています。
廃虚が海辺でうなだれて、砂浜には魚の死体が横たわる。
そんな被災地の情景に、夫の独白が重なります。
<そこは風景も時間も混沌(こんとん)とした止まったままの世界だった>
変われない世界の片隅で、夫も妻も不穏な風におびえています。
◆被害者はいないんだ
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3・11から一年後、監督は原発周辺の農家に寄り添う記録映画を世に問うた。「フクシマからの風〜第一章喪失あるいは蛍」です。
そのうちの一人、川内村の養鶏農家の言葉が今も、監督の頭の中を離れません。
「(原発事故に)被害者なんていないんだ。(電力の消費者は)全員加害者なんだよね」
こんなことも言っています。
「チェルノブイリで気がつかないから、フクシマが起きたんだ。フクシマで気づかなければ、いつかまた、どこかで起きる」
ところが新しい年を迎えるごとに、フクシマは意識の隅に追いやられ、摩耗していくように思えてなりません。監督は、そんな“もやもや”を主人公の姿を借りて吐き出すために「第二章」の大半をドラマ仕立てにしたようです。
忘却の風にあおられて脱・脱原発への逆回転が加速しています。
関西電力高浜原発と大飯原発再稼働差し止めの仮処分を認めない昨年暮れの福井地裁の決定は、その象徴ではなかったか。
専門家の意見を尊重し、よほどの落ち度がない限り、安全審査の技術的判断には踏み込まない−。
四国電力伊方原発訴訟で示された、一九九二年の最高裁判例へと逆戻り。自らの判断を回避した司法の責任放棄です。
忘却は無責任の温床です。だが何度でも繰り返す。原子力規制委員会にも国にも司法にも、むろん電力会社にも、原発の安全など到底保証できません。過酷事故の責任などは負えません。
都会の電力消費者も、原発立地地域の人たちも、多くはそれに気づいているはずです。
なのに、暮らしのためにと割り切って、あるいは、仕方がないさとあきらめて、“もやもや”しながら日々を送っていませんか。
◆選択肢はちゃんとある
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「第二章」の終幕。激しい子どもの泣き声を背景に、謎めいた言葉が画面に浮かんできます。
<変わることのない私たちは/いつか再び/復讐(ふくしゅう)されるだろう/そして救われるだろう>
間もなく五年の春が来ます。四月には家庭用の電力小売りが自由化されて、電源を選べる時代が訪れます。本紙などの調査では東京都民の約六割が東電以外への切り替えを検討中。そのうちの三割近くが安さより、「原発のない電力会社」を選ぶと答えています。
再生可能エネルギーには、世界中で新しい風が吹いています。
私たちも当事者としてこの“もやもや”に向き合い、乗り越え、変わらなければなりません。
「第三章」には「希望」という名がつくように。