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[毎日新聞] 日ソ宣言60年 意義と限界を踏まえて (2016年10月19日)

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日本とソ連(現ロシア)が戦争状態の終結で合意した日ソ共同宣言の調印からきょうで60年になる。両国議会が承認して国交が回復した。

これは単なる歴史上の文書ではない。12月の日露首脳会談で交渉の土台になるとみられるためだ。その意味を改めて考える必要がある。

1956年に鳩山一郎首相とブルガーニン・ソ連首相が調印した共同宣言は、苦しい妥協の選択だった。

日本は51年にサンフランシスコ講和条約に調印し、米英仏などとの戦争状態を終結させたが、ソ連は調印しなかった。戦犯とされて最後までソ連に抑留された人々を帰還させ、日本の国連加盟を実現するためにソ連と国交を回復する必要があった。共同宣言の意義はそこにある。

一方、限界もあった。領土の画定には合意できなかった。当時の複雑な国際情勢や、政治対立で国論がまとまらなかったことが背景にある。

吉田茂前政権の対米重視路線から脱却を目指した鳩山政権に、ソ連側は歯舞(はぼまい)群島と色丹(しこたん)島の「2島」引き渡しの妥協案を示した。当時の最高権力者だったフルシチョフ第1書記には、米ソ冷戦下で日本の中立を画策する意図があったとされる。

だが与党・自民党内の前政権派勢力や世論には国後(くなしり)島、択捉(えとろふ)島を含む「4島」返還を求める声が強く、対ソ接近を警戒する米国の圧力もあって、領土問題の解決は見送らざるをえなかった。毎日新聞の社説は当時「日本固有の領土が占領されたまま国交回復交渉が妥結されたということは、国民のだれも不満にたえないであろう」と批判している。

共同宣言は第9条で、歯舞群島と色丹島を日本に「引き渡す」と明記したが、「平和条約が締結された後に」と条件がつけられた。また平和条約交渉の継続にあたって「領土問題を含む」という文言の挿入を求めた日本側の主張は退けられた。このあいまいさは「択捉、国後、色丹、歯舞の帰属を確認して平和条約を締結する」ことを明記した93年の「東京宣言」が補完する形になった。

56年共同宣言は、60年の日米安保条約改定に反発したソ連によって長く封印された。その有効性を公式に再確認したのは2001年、プーチン露大統領と森喜朗首相が調印したイルクーツク声明だ。だがこれも、日本では「2島返還」で決着を図るものだと批判にさらされた。10年以上の「空白」を経て再び焦点が当てられるようになったのは、第2次安倍晋三政権になってからだ。

領土問題では日露間になお隔たりがある。解決は簡単ではないが、交渉の出発点の意義と限界を正確にとらえ、今後の交渉の行方を注視していきたい。

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